多肉植物のブルーアガベを主な原料に、メキシコの5つの州でのみ生産が許されているテキーラ。その中でも、ブルーアガベのみを原料とした「100%アガベテキーラ」と呼ばれる高級テキーラが、世界では主流になりつつあります。
そんな高級テキーラの中でも、最も代表的なブランドの一つであり、世界はもちろん日本でも高い人気を誇るブランドが「ドン・フリオ」です。テキーラ界の“伝説の男”が創ったことでも知られるブランドですが、昨年末、同ブランドの製造を指揮する、マスターディスティラーのエンリケ・デ・コルサ氏(以下、エンリケ氏)が来日。それに際して、セミナーが行われました。
当記事では、エンリケ氏のセミナーの内容をもとに、伝説の男とドン・フリオのストーリーについてご紹介。それらを知ることで、同ブランドが長年高い人気を誇る理由が分かってきます。
伝説の男、フリオ・ゴンザレスは「いつも逆のことをやっていた」
ドン・フリオが造られているのは、ハリスコ州の高地、テキーラに欠かせないアガベの栽培の特に適しているとされるロス・アルトス地方アトトニルコ地区です。この地で、今から70年以上前に一人の男が始めた挑戦によって、ドン・フリオの歴史が始まります。
1942年、当時17歳だったフリオ・ゴンザレス氏(以下、フリオ氏)は、人生初のテキーラ蒸留所を購入し、同時にアガベの栽培を始めます。
その頃のテキーラはと言えば、ショットで煽るように飲むものであり、悪酔するものばかり。そんなテキーラの現状に、フリオ氏は満足しておらず、自分自身の手で革新的でハイクオリティなテキーラを造りたいと思っていました。
テキーラはもちろん、アガベを愛していたフリオ氏は、知識もとても豊富。それを活かし、自ら造るテキーラでは、一つ一つの製法やプロセスを見直します。
例えばアガベの栽培。通常アガベは、1ヘクタールあたりだいたい3,000株が植えられます。それをフリオ氏は、2,500株とアガベの数を抑えて植えました。日本では高度経済成長の時代、テキーラ業界も日本と同じく大量生産の時代で、他の生産者は、もっとアガベの数を増やし効率的にテキーラを造ることを考えていました。つまり彼は、時代とは全く逆のことをやったのです。それはなぜか?彼は、あえて数を減らして栽培することで、アガベ一つ一つにより多くの養分がいきわたり、大型で質の高いアガベに育つことを知っていたからです。
このように、その時代のセオリーとは真逆のことをしていたフリオ氏を、周りの生産者は変わり者として見ていました。
そうしてついに、1951年にフリオ氏の最初のテキーラブランド「トレス・マゲイヤス」が誕生します。
快気祝いで振る舞ったテキーラ 〜 ドン・フリオの始まり
革新的な手法でトレス・マゲイヤスを生み出したフリオ氏ですが、1985年に脳梗塞を患ってしまいます。それから見事復活を果たし、快気祝いのパーティーを行ったのですが、この時、あるスペシャルなテキーラを皆に振る舞いました。実は彼は、とりわけ丁寧に造り込んだハイグレードなテキーラを隠し持っていたのです。
このテキーラには、フリオ氏らしいこだわりが詰まっていました。それまでのテキーラは、透明で縦長のボトルに詰められるのが一般的でしたが、このテキーラには茶色の凝ったデザインのボトルを採用。さらに、食卓を囲んでも前の席の人の顔をしっかり見えるようにと、背が低いボトルを採用しました。このような背が低いデザイン性の高い茶色ボトルのテキーラは、今でこそ多数のブランドで見られるようになってきましたが、当時は初だったと言います。
そして、この革新的なテキーラを味わった参加者は、皆絶賛。それを受け、1987年にこのテキーラをブランド化。その名を「ドン・フリオ」と名付け、いよいよ世に放たれました。
ドン・フリオ誕生のきっかけとなったパーティーは、テキーラの歴史が変わった瞬間でもありました。
それまでのテキーラは、1本5ドルのものでも高価とみなされており、とにかく安いのが当たり前。ハイクオリティなプレミアムテキーラとして売り出したドン・フリオは、今では当たり前となった高級テキーラの礎となったブランドであり、初めて「ドン」の名を冠したテキーラでもありました。
さらには、ドン・フリオのスペシャルな味わいは、テキーラの楽しみ方や多様性を広げたともされています。
当時は日本でも、量重視で生産された安価な日本酒が大量に出回っていた時代。量ではなく質にこだわったフリオ氏は、世界的に見ても革新的なことをやっていたのです。